銘仙に魅せられて
伊勢崎めいせん屋 金井珠代
伊勢崎市出身でもなく、着物愛好家でもありません。
伊勢崎市に住んだのがきっかけで、縁あって市の臨時職員から、観光物産協会職員に。気が付いてみれば、なんと20年お世話になりました。
還暦を過ぎ、銘仙プランナーとして新たなスタートを切るために、昨年12月に退職しました。(在職中、お世話になった方にこの場で感謝、感謝。ありがとうございました。)
伊勢崎の観光を掘り起こす仕事に関わる中で、たくさんの人に出会い、たくさんのご縁をいただき、たくさんの楽しい夢を見てきました。
「焼きまんじゅう」「国定忠治」「伊勢崎銘仙」と無我夢中でPRし、趣味と実益を兼ねた時間を過ごしてきた20年。
元々熱中癖がある困った性格、気が付けば、まだ夢の続きの中にいて、家族、友人も巻き込んで「伊勢崎銘仙」にどっぷりハマっています。「銘仙狂い」です。
そんな訳で、知れば知るほど好奇心を満たしてくれる伊勢崎銘仙をいろんな角度から追いかけて行きますので、糸へんの「ご縁」がありますことを願って、発信していきたいと思います。よろしく、おねがいします。
(本人唯一の着物写真、右は和裁の現代の名工・川岸美枝子さん)
伊勢崎銘仙
明治、大正、昭和の時代にふだん着、おしゃれ着として日本の女性たちを色鮮やかに装った伊勢崎銘仙。
昭和5年(1930)、日本の人口が約7000万人の時に456万反の生産量を誇っていました。当時の日本女性の10人にひとりが伊勢崎銘仙を着ていたことになります。
着物には大きく分けて、大島紬や久留米絣のように織る前の糸に色柄を付ける「先染め」と、友禅や江戸小紋のように織った後の反物に柄をつける「後染め」の方法があります。
伊勢崎銘仙は「先染め」の平織り絹織物です。たて糸に柄をつけるだけではなく、よこ糸にも柄をつけ、手ばた機でたてとよこの糸を1本1本併せて織ったところが、大きな特徴です。
伊勢崎銘仙はその多様な需要を充たすため、産業として高度に分業化し、高い技術を持った多くの職人の手で生み出されていました。戦後の洋装化によって需要が減ってくると、産業として成り立たなくなり、以前のような銘仙は作れなくなってしまいました。
しかし今、ポップで斬新なデザインが魅力的!と、若い女性を中心に「アンティーク銘仙」ブームが巻き起こっています。
伊勢崎織物の発祥について
続日本記(しょくにほんぎ)に、和銅7年(714)上野(こうずけ)(群馬県)、相模(さがみ)(神奈川県)、常陸(ひたち)(茨城県)の三国は、絁(ふとり)を朝廷に納めなさいと、命ぜられたと記されています。また、延喜5年(786)には、この三国に加え甲斐(かい)(山梨県)、武蔵(むさし)(埼玉県)、下野(しもつけ)(栃木県)、駿河(するが)(静岡県)の7カ国は、絹及び絁(ふとり)の納付を義務付けられたと記されています。
江戸時代には、農家が農閑期を利用して、玉糸やのし糸などくず繭を利用し、草や木の皮で染色し、縞柄の織物を作っていました。それが、渋みをおびた丈夫で温かい着尺地だということで評判を呼び、五代将軍綱吉公の時代から、京、大阪、江戸をはじめ諸国に広められ、「太織」または「縞」といわれたようです。
八代将軍吉宗公の時代には、「伊勢崎太織」として、全国に評判をよび、農家の副業であったものが、商売として取引され、元機屋が営まれるようになりました。
(昭和6年発行「伊勢崎織物同業組合史」から要約)
銘仙の語源について
明治21、22年の頃、伊勢崎太織の販売店が東京日本橋に出店した時に、赤地に白字で「めいせんや」とひらがなで染め抜いた旗を立てたのが始まりと云われます。
すでに、江戸・天明時代(1781~1788)には、たて糸の本数が多い、織り機のおさ目が千もありそうな緻密な織物だというところから「目専(めせん)」や「目千(めせん)」と言っていたようです。
ひらがなの「めいせん」が漢字になったのは、明治30年初め東京三越で販売された際、「産地の出品者がそれぞれ責任をもって優良品を選んだ」、即ち「銘々撰定した」というところから「銘撰」としたのが最初。
その後「撰」の字が「仙」に変えられたのは、銘仙は本来大衆的なものなのだけれども、他に同等なものなどない「銘々凡俗を超越したものである」というたとえから「仙」の字があてられ「銘仙」と名付けられたようです。 (昭和6年発行「伊勢崎織物同業組合史」から要約)
千代田御召について
昭和5年に456万反の生産数を誇った、平織りの伊勢崎銘仙に代わって「特殊織物」として技術開発された「千代田御召」は、昭和8年(1933)~昭和11年(1936)の4年間、伊勢崎織物の第2次黄金期を築きました。
この御召は、たて糸に絹紡糸を使い、よこ糸に強撚糸や数年前から、技術開発された「人造絹糸」いわゆる「人絹」を入れて織り上げ、ちりめんのような凹凸感のある加工を施した後、高圧真空熱処理して、ちりめんじわを固定した、さらっとした肌触りやシャリ感のある織物です。
最初は、「八雲織」の名で、新しい織物として生産されましたが、すでに他で商標登録されていたことが判明し、当時の羽尾商店二葉会が登録していた「千代田」の名を譲り受け、千代田織と改められました。その後、人絹交織された御召風のものは、自然と「千代田御召」という名で称されるようになりました。
ウール着尺について
第二次世界大戦後、伊勢崎の織物業界は単衣で着られる織物の素材として、羊毛を使った「ウール着尺」の商品化を進めました。
昭和28年ごろから本格的に試作品が作られ、昭和32年からは、全国の織物競技会で連続優勝するなど「ウール着尺」の新時代となります。
昭和37年には、驚くことに伊勢崎で生産される着尺の90パーセントを占めるほどになり、銘仙に代わって「ウール着尺」の全盛期を迎えます。 (昭和58年発行「伊勢崎織物組合百年史」から要約)